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新しい世界を見てきた経験をもとに、国際目線のこれからを作っていく
―Dr. 福嶋敬宜―

2021/12/7

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・左:福嶋 敬宜先生 右:インタビュアー(風間友里加)
・文責:因間朱里

福嶋 敬宜 先生(自治医科大学 医学部 病理学講座・附属病院病理診断部 教授)
福嶋敬宜先生は、膵臓がんの病理がご専門で、膵臓腫瘍のWHO規約を検討する国際会議に日本を代表して参加されてきた病理医です。「新しい世界を見てみたい」という気持ちを学生時代から変わらず持ち続け、ご自身で常に新たなことに挑戦されている一方で、「これからは自分が上がろうとするのではなく、世界を作っていく若者世代をいかに引き上げられるかを模索している」と語る先生。そんな先生のインタビューこそが、若者世代の今後のヒントになるはずです。

□■ 常に新しい世界を探して、積極的に飛び込んできたことが今につながっている 

--先生はご出身はどちらなんですか?

 出身は宮崎、その中でも田舎の方です。しかも、両親とも医師ではなくて、父親は小学校の教員でした。

--そうなんですね!では、そこからなぜ医師を目指されたんですか?

 医者になりたいと思うようなインスピレーションを受けた人がいたとか、そういうかっこいい話があればいいんですが、全然ないんです(笑)。今のように情報がすぐ手に入る時代でもなかったから、田舎で生活していた当時の高校生の自分には、世の中の仕組みのことも、どんな職業があるかもよく分からなくて。それでも医者というのは分かったから、「努力してなれるのであれば医者がいいな」と思ったのがいちばん最初です。
 そして、その田舎からどうやって這い上がるか、を考えていました。「世の中を自分の目で見てみたい」「自分の知らない世界を見てみたい」という思いがあったので、「どうやったら宮崎を脱出できるか」とか考えてましたよ。

--脱出というお言葉が出てくるとは思っておりませんでした(笑)。

 脱出と言っても、宮崎が嫌いだったわけではないですけれどね。でも、片田舎で世の中を考えるのは限界があるように思えて、せめて東京に行きたいと思ったんです。
 大学受験の時に自分は浪人しているんですが、実は不合格になったわけではなかったんです。国立大学に学生を合格させたいと思っていた高校の先生たちに「福嶋は医学部は無理だから、ここの工学部を受けなさい」って言われて、素直にその通り受験して、めでたく合格したんですよ。でも、その数日後には東京の予備校に嬉々として向かっていました。というか、東京に行くために予備校に行って浪人したようなものだったんです(笑)。

--最初から目線は外へ外へ、東京へ世界へ、という感じだったんですね。

 その頃はまだ「世界」という意識はなかったと思います。とにかく東京に行きたかった、東京を見てみたかったんです。東京育ちの人にはその感覚は分からないかもしれないですが、志が高かったとかそういうことではなくて、単純に、知らない世界を見てみたいという気持ちがあった。その気持ちは今もあまり変わっていないかも知れません。体力は確実に落ちてきていますが。
 だから予備校に通っていた東京時代の1年間は、つらかったというわけでもありませんでした。そして1年後、東京にまたそのうち出てこようとは思いつつ、いったん地元に戻って宮崎大学に入りました。

--その「新しい世界を見てみたい」というので、アメリカにも行かれたんでしょうか。

 医師になる頃にはもう世界を見てみたくて、留学を考えていました。
 今は初期研修2年間が設けられていまし、医局制度もずいぶん変化して、各個人の希望が尊重されやすい時代になりましたよね。でも、私が学生だった30年ほど前は、卒業したらそのまま自分の大学の医局に入るのが常識でした。私にはその医局制度がどうにもなじめず、「大学に残っていたら人生が決まってしまう」と思っていたので、なんとかして外に出なければと考えていました。
 実は、学生時代、6年生の初めくらいまでは神経内科医になりたかったのですが、ある本で「病院で働く病理医がいる」という話を読んで、俄然そちらに興味を持つようになったんです。というのも、例えば眼や心臓といったように、何か特定の臓器に希望を定められずにいた私にとって、ジェネラルに全身を対象にする学問である病理学には憧れがありました。加えて、医局制度の確固たる権威が各病院にそびえたっている状況から抜け出してsurviveしていくにはマイナーな科に行った方がいいと考えていたので、病理医は自分にとても合っているのではと感じたんです。
 そこで、病院の中で病理医としての研修ができる、当時としては先進的だった都内の数か所の病院に見学に行きました。そうして最終的に選んだのが関東逓信病院(現・NTT東日本関東病院)だったのです。当時は病理に進むのであれば大学院に行くしかなく、臨床研修は経験できないのが当たり前だったのですが、関東逓信病院は、内科も外科も、そして画像診断もローテーションして臨床を経験してから病理にいく、という研修プログラムを組んでくれたのがとてもありがたかったです。例えば、外科手術で術中迅速診断というのが行われますが、病理医としては、染色やら検鏡やらとても慌ただしいものなんです。でも、外科を回った時には、手術室で術中迅速診断の結果が返ってくるまでの時間がとても長く感じられました。その感覚は外科をローテートしていなかったら得られなかったですし、今でも大事にしているもののひとつですね。

--初期研修や医局制度など、現在とはずいぶん違ったのかなと想像します。

 昔は医局に入ると、まずはその科の見習いから始まって、助手になって…と、狭い領域の厳格な縦割りの中で少しずつ上がっていくしかありませんでした。あるいは医局人事で、数年単位であちこちの病院に異動させられるというのもありましたね。もちろん、どのような道を選んだとて、自分の希望が100%通ることはまずないと思いますが、それでも数年後の自分の人生を自分で決められないというのが、どうも私にはしっくりこなかったんです。
 今はそうした理不尽さはかなり解消されて、視野を広く自由に持てるようになったのではないかと思いますが、裏返せば「自分で自分の道を考えなくてはいけない」ということかなと思います。例えば、後期研修プログラムに乗る場合、その時期だけはプログラムを実施している医局に所属しないといけないかもしれませんが、プログラム期間が終われば医局を離れることも十分に選択肢としてあり得るわけです。働き方が多様になっているのを見ていると、何を目指すのかをきちんと自分なりに持たないといけないのかなと思いますね。

--そうして大学医局に属さずスタートした医師人生は、その後どうなっていったんでしょうか。

 医局を離れてsurviveしていくには、専門医、そして学位が必要だと考えていました。これらはいわば自分にとっての「武器の証明」になりますから、医局制度の変化した現在でも持っておくべきではないかなと思います。
 学位というのは大学がある意味権威を持って与えるものですから、大学を離れてしまった自分は無理かなと思っていたのです。そこに、当時の病理部長の先生から、国立がんセンターにリサーチレジデントというシステムがあって、研究して学位論文を提出すれば学位を取得できる、いわゆる「論文博士」というのを教えてもらったんです。ということで、千葉県・柏市にある、国立がんセンター東病院・研究所支所でリサーチレジデントとして研究に取り組み、博士論文を書いて東京大学に提出しました。ただ、2年間研究する中で自分の研究能力も分かり、「研究だけの生活は自分には合わない」という思いが強くなってきたんです。しかも、関東逓信病院に入った頃にはすでに留学、それも病理診断学の本場であるアメリカで臨床留学がしたいと思っていたのですが、働き始めてからはUSMLEの勉強時間も十分確保できず、この時期に受験を断念したりもしていたのでと鬱々とした日々を送っていました。 
 だから学位を取り、同じ頃病理専門医試験にも合格したので、研究生活を辞めて市中病院で病理医として働こうと考えていた、ちょうどそのタイミングで国立がん研究センター中央病院でポストが空いたということで面接を受けに行き、結局そこで4年間を過ごすことになりました。国立がんセンター中央病院は日本のがん診療・研究分野でトップの場所であり、ここでの経験が後々まで大きく影響していることは確実です。特に、臨床と病理の合同カンファレンスが頻繁に開催されるので、そこでの臨床の先生とのディスカッションで随分鍛えられましたし、学会で発表する時も怖くないという度胸がつきましたね。
 がんセンター3年目くらいの時、そろそろアメリカの学会で発表したいと考えるようになりました。アメリカの学会は応募しても容赦なく落とされてしまいますが、初めての応募で採択してもらうことができて、学会でついにアメリカに行くことになりました。初めてのアメリカというワクワク感からか体内の具合も変わっていたようで、実はアメリカに到着した翌日に尿管結石で近くの大学病院のER(急患室)に救急車で運ばれるという経験もしました(笑)。激痛に苦しみながら「このまま日本に帰らなければいけないかもしれない」などと考えていたのですが、まあ何とか一晩で復活したんです。一度死んだ気になったことでかえって学会では様々な先生に声をかけられて、そこで出会ったのが、自分のその後の人生も大きく変えてくれたと思うジョンズホプキンス大学のRalph Hruban先生でした。そして、病理医というのは英語が多少たどたどしくても、「この標本をあなたに見てもらいたくて日本から持って来ました」と言って一緒に顕微鏡をのぞくと一気に打ち解けるということを体感しました。そうして何人かの先生と知り合って帰国したのですが、少ししてHruban先生から「がんセンターからジョンズホプキンス大学に1, 2年留学したい人はいませんか」という連絡をもらったんです。これだ!と思った自分は急いで「他にも行きたい人はたくさんいると思いますが、自分が行きます」と返事をし、留学の機会をつかみました。
 とにかく行きたい一心で留学を決め、そのままがんセンターを辞めることにし、その後になってから留学先のボルティモアについて調べ始めたような状態でした(笑)。当時は、治安の悪さで全米でも有数の都市だったこともあり周囲の人にも止められたりしました。しかし、当時は不思議と「大丈夫」という根拠のない自信があって、そして結果的にうまくいっているのだから面白いですよね。

--もし私が先生の立場だったら、がんセンターに残ることにしていたような気がしますね。東京に出てこられた時もそうですが、先生の「飛び込んでいく」性格に憧れます。

 いやいや、行けばなんとかなるものです。ジョンズホプキンス大学のあるボルティモアには自分も妻もあっという間になじんで、ずっと前から住んでいたような顔をして生活していましたよ。結局自分は3年間留学し、妻は学位(社会学修士)取得のためにさらにひとりもう1年残って大学院に通いました。
 アメリカでは、何かをしたいと思った時の周囲のサポートが手厚く、研究者が研究そのものに打ち込める環境が整っていたので、アメリカでの研究はとても楽しかったですね。でも、すぐに色々なことに興味が湧いてしまうタイプなので、研究だけに打ち込む生活というわけでもありませんでした。実は、留学1年目、学内に貼られているポスターを見て、クリスチャンでもないし、歌が歌えるわけでもないけれど、ゴスペルの学生グループに入れてもらったんです。入ってみたらアジア系は自分だけ、白人も確か1人か2人だけで、学生のみならず指導に来てくれていた先生も含めて残りは全員黒人でした。当時私は30代でしたが、そんな環境に「今でなければこんな経験はできないだろう」と思って飛び込んで、毎週2時間みんなと練習に励みコンサートに出て歌ったのは、本場の経験だったなあと思います。今でもみんなで撮った写真は手元に置いて大切にしていますよ。

--アメリカでゴスペルをやられていたとはびっくりしました(笑)。

 そんなこんなで3年間を過ごした後帰国を決意したはいいものの、学会で出会った先生に惚れて前職も辞めて飛び込んでしまった留学だったので、帰国する時は戻る先がなくて困りましたね。最終的には、リサーチレジデントの頃の上司であった向井清先生が教授をされていた東京医科大学に着地しました。その後、自分の関東逓信病院時代の上司であり東京大学で教授になられていた深山正久先生に声をかけていただいて、東京大学に赴任したんです。
 宮崎の田舎から縁もゆかりもない場所に出てきた自分が、東京大学で講師、翌年には准教授をやるというのは実はしんどいもので、自分の力不足に苦しんだこともありました。そんな中でも、初期研修でまわってきたとある女性医師が、外科医になると言っていたはずなのに病理に転向したことがあったんです。何があったのかと思っていたら「福嶋先生がいたから」と言っていたと間接的に聞いた時には驚き半分嬉しさ半分でした。そうやって、自分とは全く違う世界で育った人たちに囲まれる環境で色々と勉強してきたところで声がかかり、現在は自治医科大学の教授のポストにいます。
 昔は大学嫌いだった自分が今は大学教授になっているわけですが、ひとつはやはり時代が大きく変わって、大学教授・医局のあり方が変わったというのがあります。そしてもうひとつ、初めてのアメリカで出会った自分の恩師のHruban先生の存在が大きいです。彼はベストティーチャー賞も取るような先生で、私も時々授業に潜りで参加していましたが、そんな彼に出会ったことで「大学教授というのもいいな」と次第に思うようになったから、帰国後のキャリアがありますね。

□■ これからの若い人たちには世界に積極的に出て、日本の成果が正当に評価される世界を作ってほしい

--その壮大な先生の人生の中で、膵臓がんに出会ったきっかけを教えてください。

 きっかけのひとつはがんセンター時代の研究です。膵臓がんは最も予後の悪いがんだと思われていたところで、今から30年程前に、それほど予後の悪くない膵臓がんというのを日本の研究者たちが報告しました。それが「膵管内乳頭粘液性腫瘍」というものです。実は肝胆膵系の疾患には日本人が初めて報告したものも多く、日本が得意な分野のひとつなんですよ。自分もがんセンターの肝胆膵病理グループに所属し、臨床病理のカンファレンス等を通じて密に勉強する中で、膵臓がますます面白くなりました。
 ただ、「いくら膵臓がんを一生懸命病理診断しても、この患者さんは結局治らないのかな」という思いを抱えていたのもありました。がんセンターは当然がん患者さんばかりでしたから、もっと他の疾患を見てみようかな、でもそれならがん領域で世界のレベルを見てからだな、という考えに至り、せっかく膵臓のことをやり始めたので、膵臓がんの世界トップレベルを見るならジョンズホプキンス大学だという思いもあったんです。

--研究と言えば、先生はディープラーニングモデルを用いた画期的な技術開発の研究にも関わられていますよね。

 画像診断と同じように、病理AIはこれから発展してくると思います。AIのおかげで病理医がいらなくなるという状況はさすがに起こらないと私は考えていますが、病理医の助けになってくれることは間違いありません。
 その研究で知り合った、病理AI開発で国際的にも注目されているスタートアップ企業の若い社長のような、自分がどう逆立ちしてもかなわないような若い人たちがこの分野にはいるので、これからますます頑張ってくれると思います。

--先生は膵臓腫瘍のWHO規約を検討する国際会議にもお名前を連ねられてきたわけですが、今後は国際会議のような場面でもディープラーニングの知識は活きてくるのかなと思ったのですが、どうなんでしょう。

 将来的にはそうかもしれません。ただ現状、ああいう分類って極めて人間臭いものですよ(笑)。どうしても政治的な要素も関係してきます。例えば先ほどお話した膵管内乳頭粘液性腫瘍は、日本から報告した当初は「粘液産生膵がん」という名前だったのに、途中でWHOによって名称を変更されてしまったという経緯があります。日本人が英語に弱いことを英語圏の人たちは知っているので、名前を変えられてしまうし、一度決めるとなかなか手放してくれない。そういう議論に日本人が入っていくのはすごく大変なんです。

--先生は、日本の医師・研究者は今後どうしたら世界に通用していけるとお考えですか。

 向こうのそれぞれの専門家のコミュニティに、「日本人も同じコミュニティの人間なんだ」ということを日頃から主張していく必要がありますかね。そのためにはこれからの若い人たちはもっと外に出て行って、日本の成果を正しく主張するようになる必要があると思います。これまでの学会のトップにいるような人たちには、そうした「海外に出ていこう、入りこもう」という感覚の弱い人が多かった気がします。分野にもよりますが、ガイドラインが英語化されていなかったり、学会は日本語開催のみだったり。一方で英語だけがコミュニケーション上の問題というわけでもないですから、入り方は色々あるはずです。

--しかし、名称を変えられたり、成果が消されたりしてきている過去を考えると、なんとなくこちらからも外には出づらいかなと感じました。

 特に病理の場合は疾患分類を扱いますから、他科にも大きな影響を与える枠組みになりえます。教科書に載っている既成事実であっても、もとをたどれば人の手で作られたものです。だから、日本が進んでいる研究領域であればその成果を主張するべきだし、それが高く評価されて枠組みに導入されて当然だと私は思っています。

□■ 国際標準を意識しながら、臨床と病理のコミュニケーションの面白さをみんなに伝えたい

-先生は「PathPort」というプロジェクトにも取り組まれていらっしゃいますよね。PathPortのご活動についてもぜひ詳しく教えていただきたいです。

 PathPortどこでも病理ラボは「施設を超えて全国的に病理診断でつながる」ことを目指して立ち上げた団体(一般社団法人)です。毎週オンラインカンファレンスを開いたり、月に1回はセミナーを開催したりしています。病理に関して、これまでは顕微鏡でガラスの標本を覗きながらだったのが、技術が進歩した今はオンラインでWSI(ホールスライドイメージ:病理標本をスキャンしてデジタル画像化したもの)の形で標本を一緒に見て議論することができます。病理医は全国的に見ても人数が少なく、そこそこ大きい病院でも病理医がひとりしかいない「一人病理医」は普通ですし、そもそも病理医がいない病院はとても多いんです。だから、周りに相談できる人もいないままひとりですべて対応し、ひとりで悩まなければいけない病理医がたくさんいるのです。その辛い状況に対して、迷った時にはみんなで解決すればいいじゃない、というのが最初の発想です。
 技術面が克服されたので、あとは心理的なハードルを下げたいと思っています。PathPortがあることで、100人くらいの大きな病理診断室にいる感覚で仕事ができれば心強いと思うんです。だから、分からない人が「分からない」と言える、質問しやすい雰囲気は大事にしていますね。

-病理の中だけでも流派の違いがあるような状況で、フラットにコミュニケーションを取っていくのは、これから臨床医と病理医との間の壁を壊すことにもつながるのかなと感じました。

 その通りです。PathPortは、臨床の先生にも入っていただくのを近々始める予定です。病理と臨床とがディスカッションする場もここ10-20年は増えてきたと思います。大学を卒業すると、必要性もあって病理に関心を持つ人は結構多く、例えば私の分野だと消化器を専門にする先生が病理診断の研修に来ることはよくあります。病理標本、そしてCTやMRI等を前にして、病理・画像診断・臨床の先生たちで議論するととても盛り上がりますから、そうした場をこれからもっと増やしていきたいですね。

-「国際標準の病理診断」という言葉がPathPortのウェブサイトに書かれていますが、これは先生の先ほどご意見ないしはアイデアなんでしょうか?

 この時代、病理診断のみならず、医療をやる時には国際標準を見据えながらやらなければいけないと思います。国は違えど同じ学問をやっているのなら、その分野に行けば誰でも議論に参加できるはず。だったら初めから国際標準を意識しましょうよ、という思いから出た言葉ですね。
 PathPortでも、近いうちに海外の先生に入ってもらい、分科会的なものを開催できないかと考えているところです。最初は私自身の専門領域で知り合いの先生たちに声をかけ、定期的な議論の場を設けるところからスタートしたいなと思っています。そこに若い人たちもが入ってきて、海外の研究者との交流を経験していけば、将来的には海外で通用する人材になってくれるかもしれないな、という期待がありますね。

-先生は、国際分類の会議に参加されたり、PathPortを立ち上げたりと、医師のコミュニティを盛り上げていくことに積極的に取り組まれているのかなと思っていたんです。でも、先生は色々とご著書もおありだと思うのですが、その中でも一般人向けの「振り回されないがん医療」を書かれていますよね。医師のみならず一般の人に向けて本を書かれたそのモチベーションは何だったんでしょうか。

 これは一般の方々の医療リテラシーの低さに対する課題感ですね。がんに関しても、エビデンスのない療法がはびこっています。その現状に対する疑問や考えを出版社の方と話しているうちに、あの本になりました。
 私は医学書を数冊書いてきましたが、病理医向けではなくすべて臨床医向けなんです。それは、臨床医と病理医がさかんにディスカッションしていたがんセンターでの経験から来ています。私は顕微鏡をずっと見ているのは正直それほど得意ではなく、むしろその見てきたものを臨床医と共有していく中で、例えば「あの時の患者さん、元気になりましたよ」とか教えてもらえる、そんな臨床とのコミュニケーションこそが病理の最も面白いところだと思ってるんです。そして、コミュニケーションの延長に、対外的には講演があり同業者や一般の方向けの情報発信があると私は考えています。
 自分の分野に関する情報提供はかなりやりましたので、次は医学生向けに、病理総論の本を書きたいと思っています。私はこれまで、ある意味“病理各論”で生きてきました。自分がWHOの国際分類会議のことを講演で話すのは、その内容は自分しか話せなかったからですし、そうした病理の「末梢」を極めるのも面白くて重要だと思います。でも、病気の本質を扱うのは病理総論であり、病理総論=医学総論とも言えるくらいですから、病理総論はどの科に行っても絶対に役立つはずなんです。ところが現状、医学生にとって病理総論は「ものすごく退屈なもの」になっている気がしています。一方で各論から入って顕微鏡写真をただただ暗記するのもつらいですよね。自分も学生時代の病理学の講義ないしは実習で覚えているのは、1限目の心筋の標本にリポフスチンがたまっているということだけ、本当にそれだけしか覚えていないんです(笑)。この状況をなんとか変えたいなと思い、総合診療にも役立つような病理総論の知識を何か本として提供できないかなと企画しています。

-それにしても、先生は今後やりたいことをたくさんお持ちで、お話を伺っているとinspireされます。

 病理医を増やさなければいけない状況で、顕微鏡を見て診断レポートを書き続けることだけが楽しくて病理をやっているわけでもないんだよ(笑)というのと、臨床との議論の面白さは、多くの人に伝えたいと思っています。

-私たち医学生に対しても情報発信してくださるとのことで、とても楽しみです。

 少しずつでも、反応してくれる人のところに情報提供したいんです。学生さん向けに大きい講義室で講義しても反応は薄いことがほとんどだけれど、臨床実習でグループ単位で来ると、少しずつ一人ひとりの個性が見えてくるんですよ。大講義室では、いかに自分の個性を隠すかになってしまう。でも、自分が東大にいた頃には、臨床実習のまとめの会を一対一でやるようにしていましたが、そうすると普通に“大人”同士として話せるし、「ああこんなこと思ってたんだ」という気付きもあってとても楽しかったんです。だから、反応が得られるような何かを医学生に向けてやっていきたいなと思っています。
 あとは、自分は今まで「這い上がる」ような姿勢でしたが、これからは「釣り上げる」、つまり才能を持った若い人たちをいかに引き上げられるかだなとも思います。やがては自分を軽々と超えていく若者がたくさん出ると思うのですが、それに対して自分が提供できるものが何かと考えると、自分が見たり経験してきた世界を少しでも実際に見せたいということですね。学生さんに対しては、先ほどもお話した「病理総論は医学総論だ」という気持ちでアプローチできればいいなと思っています。病理は覚えることが多すぎて、自分自身も学生時代の病理の勉強にはいい思い出がないですからね(笑)。これから世界を作っていくのは自分たちではなく若者の世代ですから、それをいかに引っ張り上げるか、何を後進へ提供できるかを日々模索しています。